第一夜 金沢 片町 ① スナッカーの原点
スナッカーには、誰しもその原点となる若き日のスナックとの出会いがある。
オレもまたそんな出会いを経て、スナッカーの道を歩み出している。
あれはまだ三十代前半、オレが企業のパンフレットやカタログの制作を生業とするプロダクションの制作ディレクターとして働いていた時のできごとだ。
うだるような暑い日々が過ぎ、秋の冷たい風が吹き始めたころ、金沢出張の仕事ができた。
クライアントへの取材を無事に終えたオレは、金沢随一の繁華街である「片町」へと足を向けた。
江戸時代に道の片側だけに商店街が形成されたことが地名の由来とされているその街は、夜になると無数のネオンが輝き、城下町としての静かな表情を変化させる。
仕事の緊張から放たれたオレは、今夜の酒と肴を求めて軽やかに歩き出した。
大通りの脇にレトロな屋台横丁があった。
裸電球が揺れ、炭火の香りが漂う。
香りにつられ、暖簾をくぐると、串焼きの煙の向こうで地元の人たちが肩を寄せ合い、笑い声を響かせていた。
オレもカウンターの端に座り、冷えたビールを喉に流し込む。
仕事後の疲れが心地よい酔いに変わっていった。
料理はどれも美味く、この街の名物であるどじょうの蒲焼串も含めて数種類の串焼きを食べ、中生二杯と地酒を少々いただいた。
ほろ酔いになり、腹も満たされたが、それで帰るにはまだ早かった。
もう少し夜の時間を味わいたかった。


オレは横丁を抜け、犀川に向けて歩き出した。
川に向かって伸びる路地を見ると、ふと目に留まった看板があった。
「スナック紀美子」
シンプルな文字が淡いネオンに照らされていた。
煌びやかなネオンとは違う、静かで温かな光。
どこか昭和の香りを漂わせるその名前に、オレは惹きつけられた。
「入ってみるか・・・」
ドアノブに手をかけようとしたものの、ためらってしまった。
何度か人に誘われて行ったことはあるものの、常連客が集う特別な空間というイメージが強く、当時のオレにとって、スナックは少し敷居の高い存在だった。
深呼吸をして、静かにドアノブを回す。
カラン、とドアベルが小さな音を立てた。その音と共に、温かな光がオレを包んだ。
「いらっしゃいませ」柔らかい声が響く。
カウンターの奥に立つ、おそらく「紀美子」という名前のその女性は、四十代くらいだろうか。
長い髪を髪留めで整え、上品でシンプルなドレスをまとっていた。
幸いなことに、店内に他の客はいなかった。
「外は寒かったでしょう?」
「はい」
「あと一時間くらいで閉店だけど、それまではゆっくりしていってくださいね。今日はもうお客さん、来ないと思うから」
落ち着く声、というのはこの女性の声のようなことを言うのだろう。
「ビール?それともウィスキー?焼酎もあるわよ」
「ウィスキーのロックでお願いします」
「金沢の方ではなさそうね」
「はい。東京から仕事で」
「どんなお仕事で金沢へ?」
「企業パンフレットの記事の取材で、金沢支店の方にインタビューをしに来ました」
絶妙な相打ちと、豊かな表情。聞き上手な人には敵わない。
今回の仕事の話から始まり、今手掛けている他の仕事の話から会社の近くの定食屋のトンカツが美味い話まで・・・。
聞かれるままにオレは話し込んでいた。
そのうち「いずれ独立して会社を作る」という、あまり人には話していないことまでオレは語り始めていた。
「あら、どんな会社を作るの?」
小さくても特徴のある会社を作り、仲間と一緒に自分たちにしかできないビジネスをやる。
それが誰かの役に立ち、笑顔を作っていく。
今思うと恥ずかしいくらいの熱量で話すオレに、紀美子ママは目を細め、うなずきながら聞いていた。
ふと時計を見ると、そろそろ一時間が経つ頃合いだった。
ママもそろそろ店を閉めるのだろうと思い、グラスを置くと、ママはすっと立ち上がり、店の入り口に向かっていった。
しばらくして、路地を淡く照らしていた「スナック紀美子」のネオンが消えた。
「もう少しいいわよ。ネオンを消したから、もう誰も来ないし、気にせず飲んでね」
カウンターの向こうの椅子に座ったママの、その一言に心がほどけた。


オレは再びグラスを手に取り、また少し話し込んだ。
ママも自分の話をした。
金沢に嫁いできた理由、故郷や家族の話、そして離婚をきっかけにお店を開いた経緯など・・・。
ママもまた、自分の人生を歩いてきた人だった。
さらに一時間ほど経った頃、さすがに甘えすぎるのも悪いと思い、オレは席を立った。
「そろそろ帰ります」
「そう・・・。今日はありがとう」
「こちらこそ、話しすぎちゃってすみません」
「そんなことないわよ。あなたの話を聞いて、元気をもらっちゃった」
お会計を頼むと、ママは少し微笑んで言った。
「今日は千円ね」
「え?千円ですか?」
「ええ。あなた、これから独立して仕事を頑張るんでしょう?」
「はい」
「儲かったら、また必ず金沢に来て。その時にはたくさんいただくから」
その日のお会計は千円だった。
オレに上着を渡すとママは言った。
「少しだけ待てる?」
「はい」
「じゃあ、少し待ってて」
そう言ったママは、奥の事務スペースに消えた数分後、カジュアルな姿で戻ってきた。
まとめてあった髪はほどかれ、ドレス姿の時よりかなり若々しく見えた。
「私も帰るから、通りに出るまで、少しだけ一緒に歩かない?」
それから二人で犀川のほとりを歩いた。
川のせせらぎが耳に心地よく、秋風は酔った頬を静かになでていった。
大通りまで、あと数十メートルというところで、ママの腕がそっとオレの腕に絡んだ。
「通りでタクシーを止めるわね。今日は楽しかった、ありがとう。あなたも気をつけて帰ってね」
タクシーに乗り込み、手を振るママを見送った後、オレは余韻を楽しむために犀川のほとりをもうしばらく歩いた。
その余韻は、艶めいた、というよりも、清々しい余韻だった。
