第八夜 池袋 ② クラさん

その後、クラさんの店に通うようになった。
どこかで飲んだ後ひとりになって、もう一杯飲りたい時は、クラさんタイムに行くことが多くなった。
クラさんは、店に入れる客を慎重に選んでいた。
23時を回り、クラさんタイムに扉を開けた客が、明らかに酔っぱらっていると、クラさんは表情を変えずにこう言う。
「お客さん、悪いね。この店、会員制なんだよ」
もちろん、会員制でもなんでもない。
しかし、それは泥酔した客を入れることで店の空気が壊れるのを避けるための、一種のフィルターのようなものだったのだろう。
さらに、たとえ一度店に入れたとしても、態度が悪ければ容赦はしない。
「悪いけど、金はいらないから帰ってくれ」
客を選ぶ店は多いが、「金はいらない」と言って追い返す店はなかなかない。
しかし、クラさんはそれを平然とやっていた。
逆に一度認めた客に対しては情の厚い付き合いをした。
オレが席につくと、クラさんは必ずこう聞く。
「腹減ってないか?」
オレが「いや、そんなに」と答えても、関係ない。
すぐにカウンターの奥で手際よく料理を作り始める。
肉じゃが、筑前煮、玉子焼き…どれも、おふくろの味を思わせるような素朴で温かい料理だった。
「若いんだから、たくさん食え」
もうそんなに若くはないのにな、と思いながら、それでも出された料理をありがたくいただいた。

午前1時を過ぎても店に他の客が来ないと、クラさんは店のシャッターを閉める。
「行くぞ、付き合え」
オレを連れて池袋の街へ繰り出す。
クラさんの店にやってくる女性たちの店に、律儀に顔を出しに行くのだ。
池袋の街を歩いていると、客引きが声をかけてくる。
クラさんは、しつこい客引きには一喝する。
「うるせえんだよ。お前、どこの店だ?」
クラさんの迫力に、客引きたちはすごすごと退散していく。
見た目の怖さは本物だ。
クラさんの飲み方は、女の子たちの間でこう呼ばれていた。
「水の酒割り」
普通の水割りにすると、酒が足りない、と言って自分で注ぎ足す。
クラさんは水割りと言うが、ほぼロックである。
深酒は体にこたえるくせに、店に行ったら、たくさん飲んで、きちんとボトルを入れ替えてあげるのだ。
オレがクラさんに付き合って飲む時、クラさんは一切オレからお金を取らなかった。
「いいよ、オレが誘ってるんだから」
いつも店でのオレの飲み代は安くしてくれているので、トータルだと、クラさんにとってマイナスじゃないかとさえ思える。
飲み以外での付き合いもあった。
オレの会社の周年記念イベントに招待したときは、
「俺には場違いだよ。着ていく服がねえよ」
そんなことを言いながらも、いつもの作務衣を着替え、似合わないスーツにネクタイの出で立ちで周年記念の会場に来てくれた。
オレが結成しているおっさんバンドのライブにも終盤ギリギリで駆けつけてくれたりもした。 本当に律儀で「義理と人情」を絵にかいたような男だった。

そんな付き合いが10年も続いたある夜。
カウンターの向こうのクラさんがぽつりと言った。
「最近、体の調子が悪くてさ。店を閉めようかと思ってる」
驚いて言葉を失っていると、クラさんは続けてこう言った。
「おまえ、この店やる?」
「え?」
なんと答えていいものか、困っていると
「嘘だよ、嘘」
そういって寂しそうに笑った。
それから数ヶ月後、店の扉は閉ざされたままになった。
オレはクラさんの店で知り合ったミコちゃんの店に行った。
クラさんの様子を聞くと、体を壊して入院しているらしい。
でも、弱った自分を誰にも見せたくないらしく、ごく身内の人にしか入院先を教えていないようだ。
ミコちゃんも不満げに言っていた。
「お見舞いくらい、させてくれればいいのにね」
クラさんらしいといえばクラさんらしい。

それからしばらくして、クラさんは旅立った。
亡くなる前には、内縁関係にあったこの店のママと小さな祝言をあげて。
それも律儀なクラさんらしい。
ミコちゃんから、「クラさんお別れ会」の案内がきた。
馴染みの人たちを集めて、クラさんを送ろうという主旨だ。
オレも誘ってくれて、ありがたかった。
会場となったクラさんの商売仲間の店へ行くと、クラさんの店で会った人たち、クラさんに連れられて行った店の人たちなど、顔見知りの人たちも含めて、20人くらいの人が来ていた。
会場の真ん中には、黒い縁取りの中で笑うクラさんがいた。
その横には、いつもクラさんが手首に巻いていたパワーストーンのブレスレッドが置かれていた。
酒を酌み交わしながら、みんながクラさんの思い出を語った。
ひとりひとりの思い出話の中身が濃い。
クラさんの人柄を表すような、暖かいエピソードが綴られた。
よくクラさんが歌っていたコブクロの歌のカラオケがセットされ、誰ともなく歌って偲んだ。
ミコちゃんもうっすらと涙を浮かべていた。
会も終わりに差し掛かったころ、不思議な出来事が起きた。
遺影の横に飾られていたクラさんのブレスレッドが、突然はじけたのだ。
パーンという音と共に、ブレスレッドを形成していた球が飛び散った。
その玉のひとつは、オレの足元にも転がってきた。
皆驚いて、数秒の間、静寂が包んだ。
やがて誰かがポツリと言った。
「さよなら、の挨拶だな」
オレもそう思った。
あれは、クラさんなりの挨拶だったんだ。
「また、オレの時間にも来なよ」
池袋を歩くとたまに、あの時のクラさんの声が、耳の奥によみがえる。
